フーセンガムの魔法


ある日、電車に乗っていた時のことです。
母親に連れられた幼い三姉妹が乗車して、私の向かいに座りました。

その3人の姉妹は、買ったばかりの玩具が気になって仕方ないようで、
早速袋から取り出して、遊び始めました。
その楽しそうな様子はとてもほほえましい光景でした。

しばらくたった後、視線を向けてみると、なんだか様子が変わっています。
一番幼い子がぐずっており、目に涙を浮かべています。
その表情はますます険しくなり、ついには声をあげて泣き出してしまいました。
すると、すかさず、母親がなだめて末の子を膝に抱っこしました。
その子は母の胸に顔をうずめて泣いていました。

一番上の子は、収拾困難な事態を前に、端の席でそっぽを向いています。
真ん中の子を見ると、押し黙って表情を険しくしています。
声を上げることもなく、ただじっと我慢した様子でしたが、
その頬にポロリと涙が流れました。

玩具を巡って姉妹でもめて、末の子が泣き始めたのかもしれません。
しかし、同じように悲しみを抱えた真ん中の子は、誰にも受け止められることなく、
その悲しみに静かに耐えているかのようで、胸を締め付けられる思いがしました。

気持ちが紛れたらいいなと思い、噛んでいたフーセンガムを膨らませてみました。
何度か試しているうちに、こちらの遊びに気付きました。
膨らんでは萎むフーセンガムをまじまじと眺めています。
おかしな光景、あるいはおかしな大人にあっけにとられたのか、
目の前の不思議なモノに好奇心を抱きながら眺めているうちに、
その表情からは次第に険しさが薄らいでいきました。
その後、何事もなかったかのように下車していったのでした。

その子にとって、その瞬間、まるで世界は悲しみそのもののようでした。
その悲しみを受け取ってくれるものがその場にはみあたりませんでした。

私のフーセン遊びは、些細な一幕でしかなかったかもしれませんが、
世界が悲しみに覆われているときでも、何か違う場景と出合う可能性がある
そんなことを感じてくれたのだとしたら、それはうれしいことです。

苦しみや悲しみで覆われた状況においても、違ったことが起こり得る、
その可能性を待つことで、閉塞した世界は変わるのではないかと思います。
些細なきっかけが希望の種となることもあるかもしれません。
それを見落とさないためにも、好奇心を持ち続けられたらと思います。

決して簡単なことではないですが、その可能性を待つ力を養うことは
私のカウンセリングの大きな目的の1つのように思います。